EM Simulation 14 · S パラメータ — 電磁界解析の共通出力

Chapter 14

S パラメータ — 電磁界解析の共通出力

この章のゴール.

S パラメータを「なぜ電圧・電流ではなく波で定義するのか」から理解すること。 \(|S_{11}|\) が −10 dB という数字が何を意味するかを即答できること。 そして S 行列を回路シミュレータへ渡し、系全体を組み上げる流れを掴むこと。

この章で使う既出の用語(定義は各リンク先). シミュレーション(01 章 3 節)、実測(01 章 3 節)、領域(01 章 5 節)、発散(02 章 2 節)、コモンモード(03 章 5 節)、分散(03 章 2 節)、EMI(06 章 6 節)、ABC(11 章 1 節)、導波ポート(12 章 4 節)

1. なぜ波で定義するのか

低周波では回路を電圧 \(V\) と電流 \(I\) で記述する(Z 行列、Y 行列)。 高周波では 2 つの理由でこれが破綻する。

理由中身
測れないGHz で「開放」「短絡」を正確に作ることは難しい。Z/Y 行列の測定はこれらを必要とする
定義が曖昧導波管のように「電圧」が一意に定義できない構造がある(積分経路で値が変わる)

そこで進行波——線路を右へ進む波 \(a\) と左へ戻る波 \(b\)——を基準にする。 これは整合終端(50 Ω)で測れる量なので、高周波でも正確に扱える。

S パラメータ — 進行波の比で定義する回路(2 ポート)a₁(入射)b₁(反射)b₂(透過)a₂(普通は 0)Sᵢⱼ = bᵢ / aⱼ (他ポートは整合終端)ポート 1ポート 2
電圧・電流ではなく波で定義するのは、GHz では「開放・短絡」が作れず、導波管では電圧が一意でないから

参照インピーダンス \(Z_0\)(通常 50 Ω)に対して

\[ a = \frac{V + Z_0 I}{2\sqrt{Z_0}}\ \text{(入射波)}, \qquad b = \frac{V - Z_0 I}{2\sqrt{Z_0}}\ \text{(反射波)} \]

と定義すると、\(|a|^2\) と \(|b|^2\) がそれぞれ入射電力・反射電力になる。 そして S パラメータは

\[ \boxed{\;S_{ij} = \left.\frac{b_i}{a_j}\right|_{a_k=0\ (k\ne j)}\;} \]

「ポート \(j\) から入れたとき、ポート \(i\) から出てくる比」である。 条件「\(a_k = 0\)」は「他のポートは整合終端されている」ことを意味する。

2. 各要素の読み方

|S₁₁| の読み方 — dB と電力の対応0 dB反射 100 %通過 0 %全反射−6 dB反射 25 %通過 75 %かなり悪い−10 dB反射 10 %通過 90 %一般的な合格ライン−20 dB反射 1 %通過 99 %良好−30 dB反射 0.1 %通過 99.9 %非常に良好dB は 20 log(振幅比だから)。アンテナの「帯域」は |S₁₁| < −10 dB の範囲で定義されるリターンロス = −20log|S₁₁|(正の値) / VSWR = (1+|S₁₁|)/(1−|S₁₁|)リターンロス=戻ってくる電力の小ささ、VSWR=電圧定在波比。−10 dB は VSWR = 2 に対応する
振幅だけ見て位相を捨てると多くを失う。群遅延 τ = −d∠S₂₁/dω の平坦性はデジタル伝送で決定的である
記号名前意味
\(S_{11}\)入力反射係数ポート 1 に入れて、ポート 1 に戻る割合
\(S_{21}\)順方向伝送係数ポート 1 に入れて、ポート 2 へ抜ける割合
\(S_{12}\)逆方向伝送係数ポート 2 に入れて、ポート 1 へ抜ける割合
\(S_{22}\)出力反射係数ポート 2 に入れて、ポート 2 に戻る割合

dB 表記は 20 log(振幅比だから)である:

\[ |S_{11}|_{\text{dB}} = 20\log_{10}|S_{11}| \]
$`S_{11}`$ dB反射する電力の割合通る電力の割合意味
0 dB100 %0 %全反射
−6 dB25 %75 %かなり悪い
−10 dB10 %90 %一般的な合格ライン(アンテナの帯域定義)
−20 dB1 %99 %良好
−30 dB0.1 %99.9 %非常に良好

アンテナの「帯域」は、\(|S_{11}| < -10\) dB を満たす周波数範囲として定義されることが多い(17 章)。

呼び名定義備考
リターンロス$`-20\logS_{11}`$ [dB]正の値で表す(−10 dB の反射=リターンロス 10 dB)
挿入損失$`-20\logS_{21}`$ [dB]正の値。小さいほど良い
VSWR(電圧定在波比。反射波と入射波が重なってできる定在波の、山と谷の振幅比)$`\frac{1+S_{11}}{1-S_{11}}`$1 に近いほど良い。$`S_{11}=1/3`$(−10 dB)で VSWR = 2

3. 位相と群遅延

S パラメータは複素数である。振幅だけ見て位相を捨てると、多くの情報が失われる。

量定義分かること
位相 \(\angle S_{21}\)複素数の偏角電気長。信号の遅れ
群遅延\(\tau_g = -\dfrac{d\angle S_{21}}{d\omega}\)実際の信号伝搬時間。平坦でないと波形が歪む

群遅延の平坦性は、デジタル伝送で決定的である.

群遅延が周波数によって変わると、パルスの各周波数成分が違うタイミングで到着し、 波形が崩れる(分散)。アイパターン(多数のビットの波形を 1 ビット周期で重ね描きしたもの。中央に開く目のような隙間が大きいほど余裕がある、18 章)が閉じる原因の 1 つになる。 挿入損失が平坦でも、群遅延がうねっていれば信号は劣化する。

S パラメータを読む

反射係数を動かすと、dB・電力比・VSWR・リターンロスが連動して表示される。 2 ポートのパッシブ性・相反性の検算も同時に確認できる。

4. S 行列の性質 — 検算に使う

13 章で見た検算を、S 行列の言葉で整理する。

S 行列の性質 — 検算に使う相反性S = Sᵀ(Sᵢⱼ = Sⱼᵢ)非相反素子(磁化フェライト)がなければ成立パッシブ性Σᵢ |Sᵢⱼ|² ≤ 1電源を含まなければ必ず成立無損失(ユニタリ性)Sᴴ S = I無損失 2 ポートなら |S₁₁|²+|S₂₁|² = 1対称性構造が対称なら S₁₁ = S₂₂破れたらメッシュかポートが非対称1 − |S₁₁|² − |S₂₁|² = (P損失 + P放射) / P入射この和からのずれが、損失と放射の合計になる
1 ポートのアンテナなら 1−|S₁₁|² が「構造に入った電力の割合」。そのうち放射されたぶんが放射効率である
性質条件式
相反性非相反素子を含まない\(\mathbf{S} = \mathbf{S}^T\)(\(S_{ij}=S_{ji}\))
パッシブ性電源を含まない$`\sum_iS_{ij}^2 \le 1`$
無損失(ユニタリ性)損失も放射もない\(\mathbf{S}^H\mathbf{S} = \mathbf{I}\)
対称性構造が対称\(S_{11}=S_{22}\) など

無損失 2 ポートなら \(|S_{11}|^2+|S_{21}|^2 = 1\) が厳密に成り立つ。 この和からのずれが、損失と放射の合計である。

\[ 1 - |S_{11}|^2 - |S_{21}|^2 = \frac{P_{\text{損失}} + P_{\text{放射}}}{P_{\text{入射}}} \]

この式はアンテナの効率評価にも使える.

1 ポートのアンテナなら \(1-|S_{11}|^2\) が「構造に入った電力の割合」で、 そのうち放射されたぶんの比が放射効率である(15 章)。 シミュレータの「放射効率」と「総合効率」の違いは、 反射損を含むか含まないかの差である。

5. 参照インピーダンスの変換

S パラメータは参照インピーダンス \(Z_0\) に依存する。50 Ω 基準の S 行列は、 75 Ω 基準では別の値になる。比較するときは基準を揃える必要がある。

1 ポートなら反射係数の定義から

\[ \Gamma = \frac{Z_L - Z_0}{Z_L + Z_0} \quad\Longleftrightarrow\quad Z_L = Z_0\frac{1+\Gamma}{1-\Gamma} \]

を経由して、いったん負荷インピーダンス \(Z_L\)(基準に依らない量)に直してから、新しい基準で戻せばよい。

実務での落とし穴.

「シミュレーションと実測で \(S_{11}\) が合わない」場合、 参照インピーダンスが違うことがある。 導波ポート(12 章)は特性インピーダンスをモード解析から自動的に決めるので、 50 Ω ちょうどでないことがある。設定を明示的に確認する。

6. 他の行列表現との変換 — カスケードのために

S 行列は縦続接続(カスケード)ができないという弱点がある。 2 つの回路を繋いだ全体の S 行列は、単純な行列積では出ない。

そこで縦続接続用の表現に変換する。

S 行列は繋げない — T / ABCD に変換して合成する回路 A の S 行列回路 B の S 行列S 行列どうしを掛けても縦続接続にはならないT 行列(伝送行列)に変換すると、縦続接続が行列の積になるT = (1/S₂₁) [ −detS, S₁₁ ; −S₂₂, 1 ]定義には流儀がある。ツール間の受け渡しでは規約を確認する
この変換によって「分けて解いて後で繋ぐ」(09 章)が可能になる。ABCD 行列は集中素子と混ぜやすい
表現特徴使いどころ
S 行列高周波で測定・計算しやすい標準的な受け渡し
T 行列(伝送行列)縦続接続が行列の積になる多段構造の合成
ABCD 行列(縦続行列。入力側の電圧・電流と出力側の電圧・電流を結ぶ 2×2 行列)集中素子と混ぜやすい回路解析
Z / Y 行列直列・並列接続が足し算集中素子網

2 ポート S → T の変換は

\[ \mathbf{T} = \frac{1}{S_{21}} \begin{pmatrix} -\det\mathbf{S} & S_{11} \\ -S_{22} & 1 \end{pmatrix} \]

(定義には流儀があるので、ツール間で受け渡すときは規約を確認する。)

この変換により「分けて解いて後で繋ぐ」(09 章)が可能になる。

7. Touchstone ファイルと回路シミュレータへの受け渡し

電磁界解析の結果は Touchstone 形式(.s2p, .s4p など)で出力するのが標準である。

! 2 ポート S パラメータ、周波数 GHz、大きさ・角度形式、参照 50 Ω
# GHz S MA R 50
1.0   0.12 -45.0   0.98 -30.0   0.98 -30.0   0.15 -50.0
2.0   0.20 -90.0   0.95 -60.0   0.95 -60.0   0.22 -95.0
項目内容
拡張子.sNp(N = ポート数)
オプション行単位・形式(MA=大きさと角度、DB=dB と角度、RI=実部虚部)・参照インピーダンス
データ行周波数 と S パラメータの並び

回路シミュレータで使うときの注意.

「電磁界解析の S パラメータを SPICE に入れたら発散した」の原因はほぼこれである。

8. 差動 S パラメータ(ミックスドモード)

差動線路では、シングルエンド(1 本ずつの線をグラウンド基準で見る、普通のポートの取り方)の 4 ポート S 行列を差動モード・コモンモードに変換すると読みやすくなる。

記号意味
\(S_{dd21}\)差動 → 差動の伝送(本来の信号)
\(S_{cc21}\)コモン → コモンの伝送
\(S_{cd21}\)差動 → コモン変換(モード変換。EMI の原因)
\(S_{dc21}\)コモン → 差動変換(外来ノイズの侵入経路)

モード変換 \(S_{cd}\) は EMC の主犯である.

差動信号は本来、行きと帰りの電流が打ち消し合うので放射しない。 しかしペアの長さや形状が非対称だと差動がコモンに変換され、 コモンモード電流はケーブル全体をアンテナにして盛大に放射する(19 章)。 「差動なのに EMI が出る」の原因はここにある。 シミュレーションでは \(S_{cd21}\) を必ず見る。

9. この章のまとめ

ポイント内容
定義進行波の比。整合終端で測れるから高周波に適する
読み方20 log。−10 dB = 反射 10 % が合格ライン
位相群遅延の平坦性がデジタル伝送で効く
検算相反性・パッシブ性・無損失時のユニタリ性
カスケードS は繋げない → T / ABCD に変換して合成
受け渡しTouchstone。パッシブ化・因果化を怠ると SPICE が発散
差動\(S_{cd21}\)(モード変換)が EMI の主犯