Radar 12 · 受信機と雑音 — どこまで小さい信号が見えるか

Chapter 12

受信機と雑音 — どこまで小さい信号が見えるか

この章のゴール.

「−174 dBm/Hz」という数字の出どころ(\(kTB\))を導けること。 雑音指数・ダイナミックレンジ・位相雑音という 3 つの「受信機の限界」を、 レーダーの症状(見えない・潰れる・埋もれる)と対応づけられること。

この章で使う既出の用語(定義は各リンク先). アンテナ・信号処理(01 章 2 節)、パルスレーダー(01 章 5 節)、dB・dBm(02 章 5 節)、偏波(02 章 6 節)、SN 比・\(kTBF\)・リンクバジェット(03 章 3〜4 節)、歩行者(04 章 2 節)、ビート・チャープ(08 章 3 節)、IF 帯域・リーク(08 章 6 節)、距離ビン・処理利得(09 章 2 節, 5 節)、サイドローブ(11 章 1 節)

1. 受信機の仕事と構成

受信機の仕事は「アンテナに届いた fW(フェムトワット、\(10^{-15}\) W)級のエコー(03 章のリンクバジェットでは −98 dBm ≈ 160 fW)を、ADC が読める電圧まで、雑音をなるべく足さずに増幅・変換する」ことである。 FMCW レーダー(08 章)の受信チェーンはこうなっている。

FMCW 受信チェーンアンテナエコー到着LNA低雑音増幅。全体の NF をほぼ決めるミキサチャープ複製と掛け算 → ビートIF フィルタ帯域制限+近距離リーク除去ADC数十 MHz で標本化チャープ生成(PLL、5 節)送信と同じ発振器の複製を渡す「増幅してから混ぜて、絞ってから測る」。各段が足す雑音の収支が次の図である
受信機の使命は、数 fW のエコーを雑音をなるべく足さずに ADC まで運ぶこと。主役は先頭の LNA である
段部品役割
1LNA(Low Noise Amplifier、低雑音増幅器)最初の増幅。ここの質が全体を決める(後述)
2ミキサ送信チャープと掛け算し、ビート(IF、中間周波数。08 章 6 節)に落とす(08 章)
3IF アンプ・フィルタビート帯域だけ通し、リーク由来の低周波を削る
4ADC(アナログ-デジタル変換器)サンプリングして信号処理(09 章)へ渡す

2. 熱雑音 — 物理が課す床

すべての抵抗体は、温度による電子の熱運動でランダムな電圧を発生する。これが熱雑音である。 統計力学の結果(ジョンソン–ナイキストの式。ここでは事実として引用する)によれば、整合のとれた(アンテナと受信機の間で電力が反射せず全部受け渡される状態の)受信系に入る熱雑音の電力は

\[ N = k\,T\,B \]
記号意味値
\(k\)ボルツマン定数\(1.38\times10^{-23}\) J/K
\(T\)温度慣例で 290 K(約 17 ℃。室温付近で \(kT\) が切りのよい値になるよう業界で決めた基準温度)
\(B\)帯域幅 [Hz]受信系が「聴いている」周波数幅

\(N = kTB\) を \(B\) で割った \(kT\) は「帯域 1 Hz あたりの雑音電力」[W/Hz] である。これを dBm に直すと、レーダー屋・無線屋が暗記している数字が出る:

\[ 10\log_{10}\frac{kT}{1\,\text{mW}} = 10\log_{10}\frac{4.0\times10^{-21}\,\text{W}}{10^{-3}\,\text{W}} \approx -174\ \text{dBm/Hz} \]

雑音は「1 Hz あたり −174 dBm」で万遍なく敷き詰められている.

だから帯域を広く聴くほど雑音は増える。\(B\) = 1 MHz なら −174 + 60 = −114 dBm、 10 MHz なら −104 dBm。 「必要な帯域だけ聴く」——整合フィルタ(06 章)が最適なのは、 突き詰めれば「信号のある周波数にだけ耳を澄ます」からである。

雑音フロアの積み上げ — −174 dBm/Hz から熱雑音密度 kT = −174 dBm/Hz(290 K)+ 10 log B …… 帯域 10 MHz なら +70 dB → −104 dBm+ NF …… 受信機の上乗せ 4 dB → 雑音フロア −100 dBm積み上げ「帯域を広く聴くほど床が上がる」——必要な帯域だけ聴くのが鉄則で、整合フィルタ(06 章)の本質もこれ
雑音は 1 Hz あたり −174 dBm で万遍なく敷かれている。帯域と NF を足した高さが、エコーと比べるべき床になる

3. 雑音指数 — 受信機が上乗せする分

現実の受信機は、熱雑音の床の上に自分自身の雑音を上乗せする。 その劣化を表すのが雑音指数 \(F\)(Noise Figure、NF)—— 「受信機を通ると SN 比が何 dB 悪化するか」である。

\[ F = \frac{\text{SNR}_{\text{入力}}}{\text{SNR}_{\text{出力}}} \qquad N_{\text{実効}} = kTB \cdot F \]

\(F\) は SN 比の比なので真数(倍率)で定義され、慣例で dB で言う。ミリ波の受信機で \(F\) = 10〜15 dB(10〜30 倍)程度(シリコンのミリ波 IC の場合)。 03 章のリンクバジェットに現れた \(+F\) dB の行はこれである。

縦続接続 — 初段がすべてを決める

増幅器を数珠つなぎにしたとき、全体の雑音指数はフリスの式で与えられる:

\[ F_{\text{total}} = F_1 + \frac{F_2 - 1}{G_1} + \frac{F_3 - 1}{G_1 G_2} + \cdots \]

\(F_i\) は各段の雑音指数、\(G_1, G_2, \dots\) は各段の利得で、すべて真数(dB ではなく倍率)で入れる。2 段目以降の寄与は初段の利得で割られて小さくなる。

フリスの式 — 初段がすべてを決める初段 LNA利得 G₁、雑音 F₁寄与: F₁ そのまま2 段目寄与: (F₂−1)/G₁→ G₁ で割られて小さい3 段目寄与: (F₃−1)/G₁G₂→ ほぼ無視できるF_total = F₁ + (F₂−1)/G₁ + (F₃−1)/G₁G₂ + …初段で信号を大きくしてしまえば、後段の雑音は相対的に効かない裏返し: LNA より前の損失(ケーブル・コネクタ・汚れたレドーム)は、その dB がそのまま NF に加算される「アンテナの直後に LNA」はこの式からの帰結である
縦続の雑音指数は初段支配。低雑音設計の投資は先頭の 1 段に集中させるのが正しい配分になる

初段で信号を大きくしてしまえば、後段の雑音は相対的にどうでもよくなる.

だから受信機の最初に置く増幅器だけは特別扱いで「低雑音増幅器(LNA)」と呼ばれ、 設計資源が集中投下される。 逆に、LNA より前の損失(ケーブル、アンテナとの接続、レドームの汚れ)は そのまま dB で雑音指数に加算される。アンテナ直下に LNA を置くのはこのためである。

雑音フロアと信号を比べる

Web 版のこの見出しの下には、帯域幅・雑音指数・送信電力を動かして、雑音フロア(雑音電力の高さ)と各距離のエコーの高さ比べを見られる動く図がある。 「帯域を広げると床が上がって遠くが消える」対応が見どころである。

4. ADC とダイナミックレンジ — 近くの巨人と遠くの小人

ADC は入力電圧の範囲(フルスケール \(V_{FS}\))を \(2^n\) 段階に区切り、最も近い段階の値に丸める(量子化)。丸めの誤差が量子化雑音である。 \(n\) ビット ADC の信号対量子化雑音比(SQNR)を求める。1 段階の幅は \(\Delta = V_{FS}/2^n\) で、誤差は \(-\Delta/2\) から \(+\Delta/2\) の間に一様に散らばるとみなすと、その 2 乗平均(雑音電力に相当)は

\[ \frac{1}{\Delta}\int_{-\Delta/2}^{\Delta/2} e^2\,de = \frac{\Delta^2}{12} \]

一方、フルスケールいっぱいの正弦波(振幅 \(V_{FS}/2\))の 2 乗平均は \((V_{FS}/2)^2/2 = V_{FS}^2/8\)。比を取ると

\[ \text{SQNR} = \frac{V_{FS}^2/8}{V_{FS}^2/(12 \cdot 2^{2n})} = \frac{3}{2}\cdot 2^{2n} \quad\Longrightarrow\quad 10\log_{10}\text{SQNR} = 10\log_{10}1.5 + 2n \cdot 10\log_{10}2 \approx 6.02\,n + 1.76\ \text{dB} \]

1 ビット増えるごとに 6 dB。

レーダーでこれが問題になるのは、強い信号と弱い信号が同時に来るからである。 「同時に扱える最も強い信号と最も弱い信号の電力比」をダイナミックレンジと呼ぶ。 R⁴ 則(03 章)により、1 m 先のバンパー付近からの反射と 150 m 先の歩行者では、距離比 150 の 4 乗で \(150^4 \approx 5\times10^8\)(87 dB)、RCS の差で数 dB 相殺しても 受信電力が 80 dB 以上違う。両方を同じ ADC で受けるには

の両立、すなわち 80 dB 超のダイナミックレンジが要る。上の式では 12 ビットで 74 dB と足りず、16 ビットで 98 dB だが、実際の ADC は自身の回路雑音で公称より数 dB 落ちるので、ADC 単体で 80 dB を確保するには 14〜16 ビットが要る。 実際には FFT の処理利得(09 章。量子化雑音も \(MN\) 分の 1 に薄まる)と、 IF フィルタで近距離の巨大成分を先に削る工夫(08 章のリーク対策のハイパス)を合わせ、12 ビット級の ADC で成立させる。

ダイナミックレンジ — 近くの巨人と遠くの小人−20 dBm 1 m の強反射(バンパー・リーク)−60 dBm−100 dBm 150 m の歩行者−120 dBm 雑音フロア80 dB 差ADC は 6 dB/ビット16 ビットでも約 96 dB——上を飽和させず、下を量子化雑音に沈めない綱渡り助っ人が 2 人① FFT 処理利得(+45 dB 級)が量子化雑音も薄める② IF ハイパスで近距離の巨人をあらかじめ減衰(R⁴ の逆勾配)強い方が飽和(クリップ)すると高調波が全域に撒き散り、弱い方ごと潰れる——飽和だけは絶対に避ける
R⁴ 則が生む 80 dB の同時受信。ビット数・処理利得・アナログフィルタの三者で分担して受け止める

5. 位相雑音 — 発振器の揺らぎ

チャープを作る発振器(PLL: Phase-Locked Loop、周波数を基準に鎖錠する回路)の出力は、 理想の正弦波ではなく位相がわずかに揺らいでいる。周波数軸で見ると、 搬送波の裾がスカート状に広がる——これを位相雑音と呼ぶ。

レーダーでの症状は特徴的で、 強い反射体のエコーが位相雑音の裾を身にまとい、近くの距離ビンの弱い目標を埋める。 ガードレール脇の歩行者、トラック隣の自転車——サイドローブ(06 章・11 章)と並ぶ「強者が弱者を隠す」第 3 の経路である。

位相雑音 — 強者の裾が弱者を埋める周波数(≒距離)電力 [dB]強い目標位相雑音の裾(スカート)弱い目標が裾に沈む発振器の位相の揺らぎが、すべてのエコーの両脇に「裾」を付ける。サイドローブ(06・11 章)と並ぶ第 3 の隠蔽経路FMCW の救い: 送受が同じ発振器なので、遅延が小さい(近距離)ほど揺らぎが共通で打ち消える(レンジ相関)
スペクトルの裾は PLL の品質で決まる。近距離レーダーがレンジ相関に守られるのは FMCW 特有の幸運である

FMCW には幸運な救いがある——相関による相殺.

ミキサでは「いまの送信」と「\(\tau\) 前の送信のコピー(エコー)」を掛ける。 発振器の位相の揺らぎを \(\varphi(t)\) とすると、送信には \(\varphi(t)\)、エコーには \(\varphi(t-\tau)\) が乗っており、ミキシング後のビートに残るのは差 \(\varphi(t) - \varphi(t-\tau)\) だけである。 揺らぎのうち周波数 \(f_m\) でゆっくり変わる成分は \(\tau\) の間にほとんど変わらないので差はほぼ 0 になり、電力で \((2\pi f_m \tau)^2\) 倍に抑えられる(\(2\pi f_m\tau \ll 1\) のとき)。 目標 10 m(\(\tau = 67\) ns)・\(f_m = 100\) kHz なら \((2\pi \times 10^5 \times 6.7\times10^{-8})^2 = 1.8\times10^{-3}\)、つまり −27 dB。100 m なら −7.5 dB。 これがレンジ相関効果で、近距離ほど位相雑音が効かなくなる—— 車載のような近距離レーダーが安価な PLL で成立している理由の 1 つである。

6. 飽和と近距離対策

送受同時の FMCW では、TX→RX の直接リーク+バンパー内の反射が距離ほぼゼロの巨大信号として常在する。

対策内容
アンテナ分離TX と RX を離す・偏波を変える・遮蔽壁を立てる
IF ハイパスフィルタビート周波数は距離に比例(08 章)→ 低い周波数=近距離だけ減衰させる。エコー電力は \(R^{-4} \propto f_b^{-4}\)(周波数 10 倍で −40 dB)なので、周波数 10 倍で +40 dB の 2 次ハイパスを掛けるとちょうど打ち消せる。R⁴ の逆勾配をフィルタで作る発想
送信電力・利得の制御近距離モードでは送信を落とす

パルスレーダーで同じ役割を果たすのが STC(Sensitivity Time Control)—— パルス直後は感度を絞り、時間(=距離)とともに感度を上げていく古典的な回路である。

7. この章のまとめ

ポイント内容
熱雑音\(N = kTB\)、−174 dBm/Hz。帯域を聴くほど床が上がる
雑音指数受信機の上乗せ分。フリスの式により初段(LNA)でほぼ決まる。LNA 前の損失は直に効く
ADC6 dB/ビット。R⁴ がもたらす 80 dB 差を、ビット数+処理利得+IF フィルタで受ける
位相雑音強者の裾が弱者を埋める。FMCW は近距離ほどレンジ相関で救われる
近距離の巨人リークと近接反射。IF ハイパス/STC で「距離の逆勾配」を作る