Chapter 04
オーバードライブとディストーション — クリッピングの科学
この章のゴール.
歪みの正体がクリッピング(波形の頭の切り取り)であることを理解し、 ソフト/ハード、対称/非対称、クリッピング素子の違いが倍音のどの違いになるかを説明できるようになること。 Tube Screamer 系と RAT 系の回路の違いを知り、ゲイン・トーン・レベルを根拠を持って設定できること。
この章で使う既出の用語(定義は各リンク先). ローパス(02 章 5 節)、偶数次倍音(02 章 2 節)、波形(02 章 1 節)、ブースター(03 章 1 節)、ヘッドルーム(03 章 2 節)
1. 歪み = 波形の頭を潰すこと
03 章で見たとおり、増幅回路は上限(ヘッドルーム)を超えた波形を出せない。 上限を超えた部分が切り取られる(clip)ことをクリッピングと呼び、これが歪み(distortion)の正体である。
正弦波をクリップすると、波形は四角に近づく。 02 章の言葉で言えば、波形が変わる = 倍音が足される。クリップされた波形には、元の音になかった倍音がぎっしり乗る。 歪みが「音が太くなる・伸びる・攻撃的になる」効果を持つのは、この足された倍音のせいである。
2. ソフトクリップとハードクリップ
頭の潰し方には 2 種類ある。
| ソフトクリッピング | ハードクリッピング | |
|---|---|---|
| 潰し方 | 上限に近づくとなだらかに丸まる | 上限でスパッと切る |
| 波形 | 角の丸い波 | 角の立った波 |
| 倍音 | 低次の倍音が中心。穏やか | 高次まで倍音がぎっしり。ギラギラ |
| 聞こえ方 | 「オーバードライブ」——アンプが自然に飽和した感じ | 「ディストーション」——攻撃的、密度が高い |
| 実現 | 帰還路のダイオード、真空管・トランジスタの自然な飽和 | 出力からグラウンドへのダイオード、オペアンプの電源による頭打ち |
オーバードライブとディストーションの違いは、程度と潰し方の違いであって、別の原理ではない。 ゲイン(入力の増幅量)を上げるほど、波形の多くの部分が潰れ、深い歪みになる。
3. 対称と非対称 — 偶数次倍音の出どころ
クリッピングには上下(プラス側とマイナス側)がある。
- 対称クリッピング: 上下を同じ高さで潰す → 波形が上下対称のまま → 奇数次倍音だけが増える。タイトで硬質
- 非対称クリッピング: 上下を違う高さで潰す(ダイオードの本数を上下で変える等)→ 波形が上下非対称 → 偶数次倍音も増える。2 倍音はオクターブ上なので「豊か・チューブっぽい」と言われる
真空管アンプの歪みが「甘い」と言われる一因は、シングルエンドの真空管段が自然に非対称に飽和して偶数次倍音を多く出すことにある。 ペダルではダイオードを上下 1 本 : 2 本にする(TS 系の改造で定番)などで再現する。
4. 回路の 2 大流儀 — TS 系と RAT 系
4.1 Tube Screamer 系 — 帰還路のソフトクリップ + ミッドブースト
Ibanez TS808/TS9 に代表されるオーバードライブの標準形。
- 入力をオペアンプで増幅。その帰還路(出力から入力へ戻る経路)にダイオードを 2 本入れる。ゲインが上がると帰還路のダイオードが導通し、なだらかに頭を抑える(ソフトクリップ)
- 増幅の前後で低域と高域を削る設計になっており、結果として 700 Hz〜1 kHz あたりが盛り上がる「中域の山」ができる
この「ミッドブースト + 低域カット」が TS の音の正体である。 単体では「鼻づまり」と言われるが、アンプの歪みの前に置くと、03 章の原理(低域を削ってから歪ませると整理される)どおり、タイトで抜ける歪みになる。TS を「ゲインを絞ってアンプのブースター兼整理役に使う」のが定番の使い方なのはこのため。
4.2 RAT / DS-1 系 — 増幅後のハードクリップ
ProCo RAT、BOSS DS-1 に代表されるディストーションの標準形。
- オペアンプで大きく増幅(RAT は最大 1000 倍超)
- その後ろで、信号ラインからグラウンドへダイオードを 2 本(互い違いに)入れる。ダイオードの順方向電圧(シリコンで約 0.6V)を超えた部分がスパッと切られる(ハードクリップ)
- 最後にローパスのトーン(RAT の Filter ツマミは「右に回すと高域が減る」逆向きで有名)
深く潰すぶん倍音が多く、密度の高い歪みになる。
4.3 クリッピング素子の音
潰す素子の「曲がり方」(電圧-電流特性)が、そのまま音の質感になる。
| 素子 | 順方向電圧 | 曲がり | 音の傾向 |
|---|---|---|---|
| シリコンダイオード(1N4148 等) | 約 0.6 V | 急 | 標準。タイト |
| ゲルマニウムダイオード | 約 0.3 V | 緩やか | 早く・柔らかく潰れる。コンプ感が強く甘い |
| LED | 約 1.8 V | 急 | 潰れ始めが遅い = ヘッドルームが広い。大きく開放的な歪み(Marshall Bluesbreaker 系、OCD) |
| MOSFET / JFET | — | 真空管に似た緩いカーブ | 「チューブライク」を狙う回路で多用 |
| 真空管 | — | 非対称で緩い | 偶数次倍音、音量でキャラが変わる |
| クリッピングなし(オペアンプの飽和のみ) | 電源電圧 | 回路依存 | ブースター〜クランチ |
「ダイオードを LED に替えたら音がでかく開放的になった」は魔法ではなく、潰れ始める高さ(= ヘッドルーム)が 3 倍になったというだけの物理である。
5. なぜギターの歪みは「うるさくない」のか
クリッピングは高次倍音を大量に足す。そのままフルレンジのスピーカーで聞くと、耳障りなノイズになる(ライン録音の「ジャリジャリ」)。 ギターアンプのスピーカーは 5 kHz あたりから上をほとんど出さない(02 章)。この強烈なローパスフィルタが、歪みの高次倍音の汚い部分を捨てて、おいしい部分だけを聞かせている。 アンプを通さない環境(宅録・配信)で歪みペダルを使うなら、キャビネットシミュレータ(スピーカーの周波数特性を再現するフィルタ)が必須なのはこのためである。
6. 相互変調 — 和音が濁る理由
クリッピングは非線形なので、複数の音を同時に入れると、倍音だけでなく音同士の和と差の周波数(相互変調ひずみ)が生まれる。 これは元の和音と無関係な音程なので、濁りとして聞こえる。
- 歪みを深くするほど、複雑な和音は濁る → 深い歪みではパワーコード(ルート + 5 度。相互変調が協和音になる)が使われる
- 低域は相互変調の濁りが目立つ → 歪む前に低域を削る(03 章・TS の設計)が効く
7. 音作りの勘どころ
- ゲインは「思ったより下げる」。単体で気持ちいい深さから 2〜3 割絞ると、バンドの中で音程感と抜けが残る。深さが欲しいときはゲインではなく歪みを 2 段直列(低ゲイン × 2)にすると、密度を保ったまま濁りが少ない
- Level は「バイパスと同じ」が基準(01 章)。ソロ用に上げるなら +4〜6 dB
- トーンは、アンプと合算で考える。暗いアンプならトーンを上げ、明るいアンプなら絞る。「ペダル単体でいい音」を狙わない
- ピッキングで歪みが変わる設定が「良いオーバードライブ」の定番。ゲインを、強く弾くと歪み・弱く弾くとクリーンに近づく境目に置き、手元のボリュームとタッチで操作する。ソフトクリップ + 低〜中ゲインが向く
- ブースター/TS を歪みの前段に: ゲインを 0〜低め、Level を高めにした TS をディストーションやアンプの前に置くと、低域が整理されて締まる(メタルの定番「TS ブースト」)
- 単音リフが埋もれるときは、歪みを深くするのでなく中域(700 Hz〜1 kHz)を足す。埋もれの原因はたいてい深すぎる歪みによる音程感の消失
8. 手を動かす
クリッピングと倍音
この章のポイント
- 歪み = クリッピング。潰れた波形 = 足された倍音
- ソフト(帰還路・なだらか)がオーバードライブ、ハード(グラウンドへ・スパッ)がディストーション。非対称は偶数次倍音
- TS 系 = ソフトクリップ + ミッドブースト・低域カット。アンプの前の整理役として真価
- クリッピング素子の順方向電圧 = 潰れ始めの高さ。LED は開放的、ゲルマは甘い
- スピーカーのローパスが歪みを聞ける音にしている。ライン録りにはキャビシミュ必須
- 深い歪み + 複雑な和音は相互変調で濁る。ゲインは思ったより下げ、低域は先に削る