Chapter 05
Z 変換 — IIR 解析の中核ツール
IIR フィルタの設計・解析はほぼすべて Z 変換の上で行われる。ここが本シリーズの数学的な山場。
身構える前に: Z 変換は「DTFT の守備範囲を広げただけ」. 04 章の DTFT には弱点があった。足すと無限大になってしまう信号には使えないのである。 ところが IIR フィルタの解析では、まさにその「発散する信号」(設計に失敗して暴走したフィルタの応答など)も 扱いたい。壊れた機械を調べるのに「壊れた機械には使えない測定器」しかないのでは困る。
そこで一工夫する。発散する信号にオモリを付けて、無理やり収束させてから DTFT する。 このオモリの強さを調節できるようにしたものが Z 変換である。それだけ。
そして「どのくらいの強さのオモリなら収束するか」という記録が、この章で一番の難所である ROC(収束領域) の正体になる。順を追えば怖くない。
この章で使う既出の用語(定義は各リンク先). \(u[n]\)(01 章 1 節)、複素数・絶対値・偏角(02 章 0 節)、極形式(02 章 3 節)、等比級数(02 章 5 節)、インパルス応答(03 章 3 節)、畳み込み(03 章)、因果的(03 章 5 節)、BIBO 安定(03 章 6 節)、DTFT(04 章)
1. 定義と動機
定義
信号\(x[n]\)の(両側)Z 変換:
(\(\mathbb{C}\) は複素数全体の集合。\(z\) は任意の複素数をとれる変数、という意味。)
なぜ DTFT だけでは足りないのか
DTFT は\(\sum_n |x[n]| < \infty\)の信号にしか使えない。 ところが IIR の解析では発散するかもしれない信号(不安定なフィルタのインパルス応答など)も扱いたい。
そこで\(z\) を極形式 \(z = r e^{j\omega}\)(\(r = |z| > 0\) は実数)と置いてみると:
これは「\(x[n]\)に減衰の重み\(r^{-n}\)を掛けてから DTFT したもの」。 \(x[n]\)が発散する信号でも、その増え方が指数的(ある定数 \(C, R\) で \(|x[n]| \leq C R^n\))なら、\(r > R\) と取れば\(x[n]r^{-n}\)は収束させられる。フィルタの応答はすべてこの指数型なので、実用上はこれで足りる。 つまり Z 変換は「重み付きで無理やり収束させられるようにした DTFT の拡張」である。
DTFT との関係
\(r = 1\)、すなわち\(z = e^{j\omega}\)と置く。\(|e^{j\omega}| = 1\) なのでこれは複素平面で原点を中心とする半径 1 の円(単位円)上の点である。すると:
Z 変換を複素平面全体で定義しておき、単位円の上をなぞると周波数特性が読める。
この絵は今後ずっと使う。\(z\)平面の単位円を反時計回りに一周することが「\(\omega\)を\(0\)から\(2\pi\)まで動かす」ことに対応する。

2. 収束領域(ROC)
Z 変換の級数が絶対収束する\(z\)の集合を ROC (Region of Convergence) と呼ぶ。 同じ式でも ROC が違えば別の信号を表すので、Z 変換は常に ROC とセットで考える。
ROC とは何か、なぜ必要か(一番の難所なので丁寧に).
① ROC は「どのくらいのオモリなら効いたか」の記録である。 上で見たとおり、Z 変換は信号に\(r^{-n}\)というオモリを掛けてから DTFT したもの(\(z = re^{j\omega}\)の\(r\)がオモリの強さ)。 オモリが弱すぎれば和は発散したままだし、強すぎても別の意味で発散することがある。 うまく収束してくれた\(r\)の範囲——それが ROC。複素平面上では「ドーナツ状の領域」として描かれる。
② なぜ「式だけ」ではダメなのか. これから見るように、まったく違う 2 つの信号が、まったく同じ数式の Z 変換を持つことがある。 数式だけ渡されても、元の信号がどちらだったか区別できない。区別する情報が ROC である。 「\(x^2 = 4\) の解は \(+2\) と \(-2\) のどちらか、は式だけでは決まらない」のと似た状況で、 式 + ROC の 2 点セットで初めて 1 つの信号が定まる。
③ 実用上、ROC はたった 1 つのことを教えてくれる。 込み入って見えるが、フィルタ屋にとって ROC の使い道はほぼ 1 つだけ: 「ROC が単位円(\(|z|=1\))を含むか?」= 「そのフィルタは安定か?」。 \(|z|=1\) とは「オモリを一切掛けない(\(r=1\))」ということ。 オモリ無しで和が収束する = 素の信号がちゃんと減衰している = 安定、というわけである。 この 1 点だけ押さえておけば、以下の細かい話は後から効いてくる。
例 1: 右側信号\(x[n] = a^n u[n]\)(導出)
公比\(az^{-1}\)の等比級数なので、収束条件は\(|az^{-1}| < 1 \Leftrightarrow |z| > |a|\)(02 章 5 節)。このとき(2 つ目の等号は分母・分子に \(z\) を掛けたもの):
ROC は「半径\(|a|\)の円の外側」。\(X(z)\) が無限大になる点 \(z = a\)(分母 \(1 - az^{-1} = 0\))をこの Z 変換の極と呼ぶ(一般の定義は 06 章)。 \(n < 0\) で 0 の信号(この例のように \(u[n]\) が掛かったもの)を右側信号と呼び、これはシステムのインパルス応答なら因果的(03 章 5 節)ということである。
例 2: 左側信号\(x[n] = -a^n u[-n-1]\)(導出)
\(u[-n-1]\)は\(n \leq -1\)で 1。つまりこの信号は「過去にだけ存在」する。このように \(n \geq 0\) で 0 の信号を左側信号と呼ぶ:
\(m = -n\)(\(n = -1 \to m = 1\)、\(n \to -\infty \to m \to \infty\))と置換:
公比\(a^{-1}z\)の等比級数(初項は\(m=1\)から)。収束条件は\(|a^{-1}z| < 1 \Leftrightarrow |z| < |a|\)。 \(\sum_{m=1}^\infty r^m = \frac{r}{1-r}\)(\(\sum_{m=0}^\infty r^m = \frac{1}{1-r}\)から\(m=0\)の項 1 を引いた)を使うと:
(2 番目の等号は分母・分子に \(a\) を掛けた。3 番目は分母の符号を反転してマイナスを消した。4 番目は分母・分子に \(z^{-1}\) を掛けた。)
例 1 と完全に同じ式になった。違いは ROC だけ:
| 信号 | 式 | ROC |
|---|---|---|
| \(a^n u[n]\)(未来へ減衰) | \(\frac{1}{1-az^{-1}}\) | \(\lvert z\rvert > \lvert a\rvert\)(円の外側) |
| \(-a^n u[-n-1]\)(過去へ伸びる) | \(\frac{1}{1-az^{-1}}\) | \(\lvert z\rvert < \lvert a\rvert\)(円の内側) |
ROC の性質(重要なものだけ)
- 右側信号(因果的信号)の ROC は最も外側の極より外側(例 1 のパターン)。
- 左側信号の ROC は最も内側の極より内側(例 2 のパターン)。
- ROC が単位円\(|z|=1\)を含む ⟺ DTFT が存在 ⟺ システムなら BIBO 安定。 (理由:\(|z|=1\)上で絶対収束 ⟺\(\sum_n |x[n] \cdot 1^{-n}| = \sum_n |x[n]| < \infty\)。これは 03 章の安定条件そのもの。)
直感: ROC は「どのくらい強い減衰の重み\(r^{-n}\)を掛ければ和が収束するか」の記録。 因果的な信号は未来方向に伸びるので、外側(強い減衰重み)で収束する。

3. Z 変換の性質(すべて導出)
以下、\(\mathcal{Z}\{x[n]\}\)は「\(x[n]\)の Z 変換」すなわち\(X(z) = \sum_n x[n] z^{-n}\)を表す記号とする。
(a) 線形性
(ROC は少なくとも両者の ROC の共通部分。)
(b) 時間シフト — IIR で最も重要な性質
\(m = n - n_0\)と置換(\(n = m + n_0\)):
(\(\longleftrightarrow\) は「左の信号の Z 変換が右である」という対応(Z 変換対)を表す記号。)
直感: \(z^{-1}\)は「1 サンプル遅延」の記号。ブロック図で遅延素子を\(z^{-1}\)と書くのはこのため。 差分方程式(\(y[n-1]\)などを含む式)が Z 領域では多項式の掛け算になる。これが 06 章で伝達関数を作る鍵。
(c) 畳み込み定理
和の順序交換、\(z^{-n} = z^{-k} z^{-(n-k)}\)と分解、内側で\(m = n-k\)と置換:
(DTFT の畳み込み定理の導出と同じ流れ。ROC は両者の共通部分を含む。)
(d) 指数重み(z 領域スケーリング)
直感: 時間領域で\(a^n\)を掛けると、\(z\)平面の極や零点がすべて\(a\)倍の位置に移動する。 「減衰を強くする = 極を原点に引き寄せる」という操作に対応。
(e) z 領域微分
\(X(z) = \sum_n x[n] z^{-n}\)を\(z\)で微分する(べき級数は収束域の内側では項ごとに微分してよい、という解析学の事実を使う):
両辺に\(-z\)を掛ける:
用途: 重根(多重極)を持つ場合の逆変換で使う。
応用例(導出):\(x[n] = n a^n u[n]\)の Z 変換。 \(X(z) = \frac{1}{1-az^{-1}}\)(\(a^n u[n]\)のもの)に (e) を適用:
(商の微分法則を使用。)よって:
(最後の等号は分母・分子を \(z^2\) で割った: \((z-a)^2/z^2 = (1 - az^{-1})^2\)、\(az/z^2 = az^{-1}\)。)
4. 逆 Z 変換 — 部分分数展開法
IIR の伝達関数(出力の Z 変換 ÷ 入力の Z 変換。06 章で定義する)は\(z^{-1}\)の有理関数(多項式 ÷ 多項式)になるので、 逆変換は部分分数展開でほぼ機械的にできる。手順を実例で示す。
何のためにやるのか. Z 変換した後の世界(\(X(z)\))は計算がしやすいが、 最後は「で、実際の波形はどうなるの?」という時間の世界に戻ってきたい。その帰り道が逆 Z 変換である。
ただし帰り道の計算を真面目にやると複素積分(留数定理)が必要になり、非常に面倒。 そこで賢い抜け道を使う: 複雑な分数を、答えを知っている簡単な分数の足し算にバラす。 \(\frac{1}{1-az^{-1}}\)という形なら「\(a^n u[n]\)」と答えが分かっている(2 節 の例 1)ので、 どんなに複雑な\(X(z)\)も、この形の足し算に分解できれば、あとは各項を答えに置き換えて足すだけで済む。
高校で習った「\(\frac{1}{x(x+1)} = \frac{1}{x} - \frac{1}{x+1}\)」という部分分数分解と、やっていることは全く同じ。
例題
ステップ 1: 部分分数の形を仮定
ステップ 2: 係数の決定(ヘヴィサイドの被覆法。導出込み)
両辺に\((1 - \tfrac{1}{2}z^{-1})\)を掛ける:
ここで\(z^{-1} = 2\)(つまり極\(z = \tfrac{1}{2}\))を代入すると\(B\)の項は分子が\(1 - \tfrac{1}{2}\cdot 2 = 0\)となって消える (この点は ROC の外だが問題ない。ROC は「級数がその式に等しくなる範囲」であって、上の等式は分数式どうしの恒等式なので、両辺が定義される \(z\) ならどこで評価してもよい):
同様に両辺に\((1 - \tfrac{1}{4}z^{-1})\)を掛けて\(z^{-1} = 4\)を代入:
検算:\(\dfrac{2}{1-\frac12 z^{-1}} - \dfrac{1}{1-\frac14 z^{-1}} = \dfrac{2(1-\frac14 z^{-1}) - (1-\frac12 z^{-1})}{(1-\frac12 z^{-1})(1-\frac14 z^{-1})} = \dfrac{2 - \frac12 z^{-1} - 1 + \frac12 z^{-1}}{(\cdots)} = \dfrac{1}{(\cdots)}\)✓
ステップ 3: 各項を逆変換
ROC が\(|z| > \tfrac{1}{2}\)(両方の極の外側)なので、どちらの項も右側信号(例 1 のパターン)として読む:
ここから得られる一般的な洞察(IIR の本質)
有理関数の Z 変換を持つ因果的信号は、部分分数展開により必ず
の形になる(極 \(p_i\) が \(m_i\) 重根のときは、その極の項が \(\sum_{k=0}^{m_i - 1} A_{ik} n^k p_i^n u[n]\) に置き換わる。3 節(e) の z 領域微分で出た \(n a^n u[n]\) がその \(k = 1\) の例)。\(p_i\)は極。つまり:
IIR フィルタのインパルス応答は「極\(p_i\)を底とする指数列の重ね合わせ」(実数の極なら単調な指数減衰、複素数の極なら下で見る減衰振動)であり、 すべての\(|p_i| < 1\)のときに限り\(n \to \infty\)で減衰する。
複素数の極\(p = re^{j\theta}\)の場合、実係数システムでは必ず共役対\(p^* = re^{-j\theta}\)とセットで現れ、係数も共役対 \(A, A^*\) になる。 \(A\) を極形式 \(A = |A| e^{j\angle A}\)(\(\angle A\) は \(A\) の偏角)で書くと \(A p^n = |A| e^{j\angle A} r^n e^{j\theta n} = |A| r^n e^{j(\theta n + \angle A)}\)、共役側は指数の符号が全部反転するので、対応する項は
つまり減衰率\(r\)、角周波数\(\theta\)の減衰振動になる(鐘の「ゴーン」の余韻の数学的正体)。
